渋谷の200年(7月13日)
2006年 07月 13日
40年という単位で過去200年を振り返ると、現在に至るまで、5つの期間として区切ってみることができる。
最初の40年の区切りは、1806年から1845年までで、文化3年から、文政、天保を経て弘化2年に至る。
この間日本の人口は増えていなかったようで、江戸の中心部はいざ知らず、村落に過ぎなかった周辺地域は日本中の農村と変わるところはなかっただろう。
駒場のまわりでも、道ができたり、新しい建物ができたりするようなことがあったとは考えにくい。
次ぎの1846年からの40年は激動の時代だ。元号では弘化3年から嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応を経て明治18年までとなる。
鷹場の駒場野は幕末の危機にあって幕府の軍事訓練の場となっていった。慶応3年、駒場野の鷹場を拡張して大演習、射撃訓練にすることを提案したフランス人の軍事教官の提言を受け、幕府は周辺の調査を開始した。ところがこれに住民が反対運動を起こし、結局そのまま大政奉還を迎えた。
明治10年には農学校の建設が始まり、11年1月に開校式の式典が天皇や政府高官臨席のもと挙行された。この時の敷地は6万坪であったとされるのだが明治17年には16万5千坪になったということなので、鷹場の土地がそのまま学校の用地になったといってよいだろう。
松涛は紀州徳川家の下屋敷であったのを佐賀の鍋島家が払い下げを受け、明治9年松涛園という茶園になった。玉川通りの反対側は、明治7年には豊後岡藩の屋敷を西郷従道が購入し、翌8年には菅刈小学校が開校している。
山手線が開通する前の渋谷は、赤坂方面から駒場を含む上目黒村へ高官を運ぶ馬車が通りすぎるだけのところでしかなかった。
渋谷駅ができたのは明治18年。この時期までは駒場農学校の周辺の方が渋谷駅周辺より開けていた、といっても間違いではないだろう。